水の張られた水田で田植えする農夫たち、はさ木の連なる収穫後の水田……。一目見ると、思わず引き込まれてしまう風景画を描くのは、新潟県在住の墨彩画家、藤井克之さん(64)である。ぬくもりある画風には、作者の生きざまが表れている。
「田植え風景1」(『藤井小百合紀念書冊』より)
新潟に縁のある人は、藤井さんの絵をどこかで見たことがあるのではないだろうか。絵はがきのほか、地ビールのラベルや米菓のパッケージにも使われている。県外の人でも、どこか懐かしい風景との評価を聞く。
藤井さんは1954年、同県旧巻町(新潟市西蒲区)に生まれ、大阪芸術大学美術科を卒業。二科会松井正画伯に師事、油彩画を専攻する。1994年、第13回日本水墨画会展、朝日新聞社賞など4つの賞を受賞している。
立派な経歴だが、紆余(うよ)曲折があった。42歳まで、県立高校の教員をしていた。サラリーマンが苦手で、いつも美術準備室でタバコをくゆらしていた。「学校は好きじゃなかったけど、子供は好きでした」と述懐する。ただし、絵描きになる計画は抱き続けた。
墨彩画に至る転機は、26歳のときに訪れた。初任地の堀之内高校(魚沼市堀之内)を離れることになった。自ら創った美術部に、旧湯之谷村(魚沼市への編入で消滅)で大沢和紙を漉(す)く家の娘がいた。需要がなく、今年でやめると言い、たくさんの紙を土産にもらった。
藤井さんは4年間のお礼にと、この紙に町の風景を描いて贈ろうと考えた。ところが、洋画用の絵の具が載らない。墨だとなじみ、「紙が喜ぶ」と思った。水彩用の絵の具を少し混ぜると、思いの外、映えた。
展覧会は地元の総勢100人が実行委員会を組織し、開いてくれた。お年寄りが一様に喜び、「素晴らしい」と涙するのを目撃する。藤井さんの心に変化が起きた。
「ずっと抽象画を描いてきて、20歳のころから神戸や新潟の市内で個展を開いていました。評論家に認めてもらい、美術雑誌に書いてもらおうと、そのことばかり目指してきた。でも、芸術にこだわらなくても、職人、絵師でいいんだと思えたんです」
それから8年後、新潟の大和デパートで個展を開く。そのとき「墨彩画」という名称を考えついた。墨で輪郭と明暗を描き、最後に水彩絵の具で色を付ける。「マンションにも飾れる新しい水墨画」の形式が生まれた。
「無彩色に有彩色がうまく絡むと、色もきれいに見えてくる。墨が色を引き立ててくれるんです」
ただし、下書きやデッサンはなく、ぶっつけ本番。油絵のように描き直しが利かない。
教員を辞め、墨彩画家として再出発すると、新しい発見があった。車で走行中、田植えに遭遇する。車を降りて、食い入るように見た。郷土、西蒲原の風景美に気付いた瞬間だった。
「4月は学校が忙しく、田植えを見たことがなかったんです。絵師でいいと思ったら見る物新鮮で、周りの世界に見とれ、いろんなことを感じ始めました。名声を求め、上ばかり見てきた自分が、新潟を好きになり始めました」
ハッとする作品は、この新鮮な気持ちが込められているからかもしれない。展覧会で藤井さんの絵を見て、10年後に電話をしてきた人もいる。画を求めたり、本の表紙を依頼したり。それだけ強烈に記憶に残るのだろう。
今では、個展の傍ら、県内延べ9カ所で墨彩画を教える。蓄えのない状態で独立した藤井さんを気遣い、知人たちが県内各地の教室と交渉してくれた。「断っても悪いから、続けています。案外人が好きかもしれません。実際、人に助けてもらったし」と照れる。
しかし、順風満帆ではなかった。2016年2月、長女の小百合さんを32歳で亡くす。15歳のときからうつ病を患っていた小百合さんは旅行で訪れた台湾に引かれ、12年春に移住。現地の日本語学校で教師の職に就く。新天地で、うつの再発はなかった。翌年の夏、乳がんが見つかり、帰国。新潟で抗がん剤治療を受けていた。
愛娘を亡くしてから1年半、筆を執れなかった。手を差し伸べてくれたのは、小百合さんの台湾の教え子たちだった。闘病中も見舞いに来ていた1人が、「台湾の風景を描きませんか。現地でぜひ、個展を」と提案した。藤井さんは、娘がなぜ台湾に引かれたのか、足跡をたどることで、彼女が何を考えたかを知ることができると思った。
藤井さんは17年の夏から暇を見ては、台湾に足を運んだ。カメラと絵筆を持って、娘の過ごした日々を一つひとつ、記録していく。彼女が歩いた同じ道を歩き、同じ食べ物を味わった。
18年7月、台北市内で開いた個展には、大勢の人が集まった。日本からも小百合さんの友人約40人が来た。郷土、新潟の風景画と、小百合さんの好んだ台湾の場所を描いた作品とが展示された。
「娘が魅せられた台湾が、私を励ましてくれました。日台の懸け橋になりたかった娘に代わって、台湾に恩返ししていきたい」
小百合さんがお気に入りだった台南市のコーヒー店「窄門珈琲」を描いた作品は、現地の新聞で取り上げられた。まるで空席に誰かがいて、会話が聞こえてきそうだ。それを見た女性店主が個展に訪れ、彼女を偲(しの)んだ。
試練を乗り越え、藤井さんの絵はさらに厚みを増しているように映る。
藤井さん(2019.1.5新潟市西蒲区のご自宅で筆者撮影)
「窄門珈琲」を描いた作品。現在右側の壁には、この絵が飾られている(『藤井小百合紀念書冊』より)
「田植え風景1」(『藤井小百合紀念書冊』より)
新潟に縁のある人は、藤井さんの絵をどこかで見たことがあるのではないだろうか。絵はがきのほか、地ビールのラベルや米菓のパッケージにも使われている。県外の人でも、どこか懐かしい風景との評価を聞く。
藤井さんは1954年、同県旧巻町(新潟市西蒲区)に生まれ、大阪芸術大学美術科を卒業。二科会松井正画伯に師事、油彩画を専攻する。1994年、第13回日本水墨画会展、朝日新聞社賞など4つの賞を受賞している。
立派な経歴だが、紆余(うよ)曲折があった。42歳まで、県立高校の教員をしていた。サラリーマンが苦手で、いつも美術準備室でタバコをくゆらしていた。「学校は好きじゃなかったけど、子供は好きでした」と述懐する。ただし、絵描きになる計画は抱き続けた。
墨彩画に至る転機は、26歳のときに訪れた。初任地の堀之内高校(魚沼市堀之内)を離れることになった。自ら創った美術部に、旧湯之谷村(魚沼市への編入で消滅)で大沢和紙を漉(す)く家の娘がいた。需要がなく、今年でやめると言い、たくさんの紙を土産にもらった。
藤井さんは4年間のお礼にと、この紙に町の風景を描いて贈ろうと考えた。ところが、洋画用の絵の具が載らない。墨だとなじみ、「紙が喜ぶ」と思った。水彩用の絵の具を少し混ぜると、思いの外、映えた。
展覧会は地元の総勢100人が実行委員会を組織し、開いてくれた。お年寄りが一様に喜び、「素晴らしい」と涙するのを目撃する。藤井さんの心に変化が起きた。
「ずっと抽象画を描いてきて、20歳のころから神戸や新潟の市内で個展を開いていました。評論家に認めてもらい、美術雑誌に書いてもらおうと、そのことばかり目指してきた。でも、芸術にこだわらなくても、職人、絵師でいいんだと思えたんです」
それから8年後、新潟の大和デパートで個展を開く。そのとき「墨彩画」という名称を考えついた。墨で輪郭と明暗を描き、最後に水彩絵の具で色を付ける。「マンションにも飾れる新しい水墨画」の形式が生まれた。
「無彩色に有彩色がうまく絡むと、色もきれいに見えてくる。墨が色を引き立ててくれるんです」
ただし、下書きやデッサンはなく、ぶっつけ本番。油絵のように描き直しが利かない。
教員を辞め、墨彩画家として再出発すると、新しい発見があった。車で走行中、田植えに遭遇する。車を降りて、食い入るように見た。郷土、西蒲原の風景美に気付いた瞬間だった。
「4月は学校が忙しく、田植えを見たことがなかったんです。絵師でいいと思ったら見る物新鮮で、周りの世界に見とれ、いろんなことを感じ始めました。名声を求め、上ばかり見てきた自分が、新潟を好きになり始めました」
ハッとする作品は、この新鮮な気持ちが込められているからかもしれない。展覧会で藤井さんの絵を見て、10年後に電話をしてきた人もいる。画を求めたり、本の表紙を依頼したり。それだけ強烈に記憶に残るのだろう。
今では、個展の傍ら、県内延べ9カ所で墨彩画を教える。蓄えのない状態で独立した藤井さんを気遣い、知人たちが県内各地の教室と交渉してくれた。「断っても悪いから、続けています。案外人が好きかもしれません。実際、人に助けてもらったし」と照れる。
しかし、順風満帆ではなかった。2016年2月、長女の小百合さんを32歳で亡くす。15歳のときからうつ病を患っていた小百合さんは旅行で訪れた台湾に引かれ、12年春に移住。現地の日本語学校で教師の職に就く。新天地で、うつの再発はなかった。翌年の夏、乳がんが見つかり、帰国。新潟で抗がん剤治療を受けていた。
愛娘を亡くしてから1年半、筆を執れなかった。手を差し伸べてくれたのは、小百合さんの台湾の教え子たちだった。闘病中も見舞いに来ていた1人が、「台湾の風景を描きませんか。現地でぜひ、個展を」と提案した。藤井さんは、娘がなぜ台湾に引かれたのか、足跡をたどることで、彼女が何を考えたかを知ることができると思った。
藤井さんは17年の夏から暇を見ては、台湾に足を運んだ。カメラと絵筆を持って、娘の過ごした日々を一つひとつ、記録していく。彼女が歩いた同じ道を歩き、同じ食べ物を味わった。
18年7月、台北市内で開いた個展には、大勢の人が集まった。日本からも小百合さんの友人約40人が来た。郷土、新潟の風景画と、小百合さんの好んだ台湾の場所を描いた作品とが展示された。
「娘が魅せられた台湾が、私を励ましてくれました。日台の懸け橋になりたかった娘に代わって、台湾に恩返ししていきたい」
小百合さんがお気に入りだった台南市のコーヒー店「窄門珈琲」を描いた作品は、現地の新聞で取り上げられた。まるで空席に誰かがいて、会話が聞こえてきそうだ。それを見た女性店主が個展に訪れ、彼女を偲(しの)んだ。
試練を乗り越え、藤井さんの絵はさらに厚みを増しているように映る。
藤井さん(2019.1.5新潟市西蒲区のご自宅で筆者撮影)
「窄門珈琲」を描いた作品。現在右側の壁には、この絵が飾られている(『藤井小百合紀念書冊』より)













